殺傷事件について

ここのところニュースを見ているのもつらくなる
残虐な事件が続いている。

秋葉原での「無差別殺傷事件」。
詳細がわかってくるにつれ、言葉を失う。

私にとって秋葉原は、海外から人が来ると立ち寄る
観光コース。
ここ数年、外国人が日本に来ると彼らの行きたい場所は
「京都」と同じくらい「秋葉原」の地名があがった。

数年前は歩行者天国のパフォーマンスも楽しみのひとつだった。

「オタク」のまちと呼ばれる秋葉原は一歩裏道に入ると
独特の雰囲気があり、それもまた「アキバ」っぽくて
観光コースとして盛り上げてくれた。

その場に居合わせて運が悪かったですまされない痛ましい事件。

こんな残虐な映画のようなことが日本で起こるなんて。
他のアジアの国では耳にしたことのない
「何かが歪んだ」事件が続いている。

「世の中が嫌になったので、人を殺したかった。
誰でもよかった」

携帯の掲示板に予告メールを送り実行に移した手口。

「世間への恨み」

家庭環境は不自由なく、勉強もできて、でもどこか
限界まで自分を押し殺してがまんして、
事件を起こすことによって
最後に自分の存在をアピールするかのような、
そんな共通点がある。

本当の自分ではなくレールを敷かれるがままに「いい子」を
演じた果てに最後のフィナーレ。

日本の社会や教育がこのような事件を起こさせてしまう
人格を形成しているのか…。

今は驚くほど便利であらゆる情報がいとも簡単に
入手できる世の中。

実際、私も携帯電話やパソコンはもっとも頼りにしている
ツールである一方、これらを使うようになってから
人の気持ちに対して鈍くなった気がする。
これら便利なツールが人に対してのリスペクトに悪影響を
与えているのは確かでしょう。

以前、カンボジアのボランティアで
自分の無力さを思い知らされた。

電気も水もガスもないその土地で、
自分にできることはほとんどなかった。
そこでは文明の利器を持ち込むことは
許されなかった。

文明の利器や便利な生活を知らない代わりに
家族の絆、近所のひとたちとのつながり、学校で勉強できる
ありがたさ、平和な生活が当たり前に続いているということを
教えられた。

カンボジアのとある村では便利な生活が入ってきたことにより
嫉妬、ねたみ、憎しみを抱くようになり、争いが起こり、
それまで平和だった村はバラバラになったという。

知らないからこそ、いいこともある。
知らないほうが幸せなことってたくさんある。

話はとんでしまいましたが、この事件について新聞やニュースで
見るたびに、やるせなくて、色々なことが頭をよぎる。

最後になりましたが、お亡くなりになられた方々のご冥福を
心よりお祈りもうしあげます。